日本の教育は死んでいる

と書きながら、死んでいないはずと信じたい。

明日で東日本大震災から6年になるので、テレビでは関連特集を放映していた。

その中で「原発いじめ」を目にして心が痛み、また憤りを覚えた。。

 

ある女の子が避難先の小学校でいじめにあっていた。

「一緒に帰ろう」と言ったら逃げられた、誰かが落とした物を拾ってあげようとしたら

逃げられた。「これって、、いじめなのかな・・・」と感じ始めた。

そういう状況だったため、当時の先生に相談をしたところ「勘違いじゃないの?」

と一蹴。。

 

それから中学生になり、環境が変わったもののいじめはおさまらない。

どうしたものか困り果てたその女の子は2016年7月の授業において作文を作った。

「人間なのに」と題した作文に小学校からいじめられていたこと、中学校になっても

いじめが続いていること、何の為に生きるのかという生きる希望を見失っている記述、

など明らかに問題があることを知らしめるに十分な内容で作文を提出。

しかし返却された作文には「B 」という評価のみでその後何のフォローもなし。

女の子は「やっぱりな」という感想だったという。

 

教師の信頼は失墜した。謝れば済むものではない。

そういう意識を該当の教師は持つ方が良い。

 

一部の愚かな教師を見て、教師全般を否定的な目で見ることは間違っている。

それは頭ではわかっているが、こういう事件があると教師のイメージはやはり悪い。

そのために、親も教師を信じず、親と学校の溝が深くなる。

この負のスパイラルに陥ることは想像に難くない。

 

教育は、親も学校も両輪となって対応すべきものだと思う。

 

それともうひとつ。これ以降は完全なる推測。

 

家族ももう少しなんとかできないものだろうか。

親は小学校までのいじめは把握していたそうだが、中学でのいじめに気付くまでに

作文提出後5ヶ月を要した。

親が子どもの考えを常に把握することは現実的ではない。

しかし子どもが希望を捨てずにいれば親に相談することもあってよかったのではないか。

中学校の先生に対して「やっぱりな」という思いがあったというが、

それは家族に対しても似たような思いがどこかにあったのではないか。 

我が家も子どもたちがいつも援助を求めやすい環境を構築していきたい。

該当の家庭を批判するつもりはないが、作文提出後は子どもが絶望していたのも事実。

今後は可能な限り子どもの声を引き出せる環境ができあがっていくとよいと思った。 

 

そんなわけで決して他人事ではない事件として心に刻み付けたい。