多摩動物公園に行ってきた!
久しぶりに家族4人で朝からお出かけ。
ももたんがコウモリを見たい!という珍妙な思いつきから多摩動物公園へ。
いい天気で朝から活動するととても気持ちがいい。
多摩動物公園は大混雑ではなく、園内には3か所の授乳スペースがあり
赤ちゃん連れでも安心して遊びに行ける所だった。
八王子市民としては近場でわりと楽しめるオススメ所だ。
電車が好きな人は多摩動物公園駅に京王れーるランドがあり、
子供向けにもミニ電車があるのがうれしいところ。
みーたんも初めての動物園。
まだそんなに反応しないかもだけどとりあえず楽しんでくれると嬉しいな。
残念ながらお目当てのコウモリは随分前に展示を取りやめてしまったようだった。
ももたんは落胆したもののなんとか気持ちを切り替えて他の動物を見ることにした。
まずは蝶などの昆虫から。
虫が大嫌いな自分としては大変イヤな空間だったがふと奥義を編み出した。
奥義メガネを外して歩くの術である。
順路を見失うほど視力は低下していないので危険性はない。
にもかかわらずおぞましい虫の姿にすべてモザイクがかかるのだ。
あとはぞうさんやチンパンジーやきりんなど基本的な動物を見て楽しんだ。
おさるさんも暑かったようです。
ランチはともちゃんが作ってくれたお弁当をみんなでいただいた。
みーたんもご満悦。
小学生に対して『下手くそ』という言葉は有効なのか?
とあるスポーツの練習(小学生)を見学する機会があった。
そのなかで「下手くそ!」という声が聞こえて不快感を抱いた。
それはコーチが教え子に向けて放った言葉。
確かにそれは愛のある指導のひとつであり、効果的なことが多いのかもしれない。
でもあまりそういう環境で育ってこなかった、かつバスケが下手くそで
人並みにできるようになるまである程度努力してきた自分としては不快。
下手と言われてどうしていいかわからなかったり、自覚しているところに
さらに怒鳴られるのは気分が悪い。そんな感情を小学生は抱かないのか。
そもそも下手くそだから習っているのであって、教えている当の本人が
下手くそ!と言ってどうするのか。
下手、要領が悪いというならば悪いところを指摘して教えればいいのではないか。
下手くそ!と言われ、それに対して「こんちくしょー!次こそは!」とか
次につながるバネにすればよいのかもしれないが誰かに負ける、試合に負ける
という経験こそが「悔しい!次こそは負けない!」という闘争心を生む。
ならば、わざわざ指導者がその役割までかってでる必要はないと思う。
まずとっさにこんな考えが浮かんでモヤモヤしていたものの、
小学生の指導方法をまったく知らない自分に見えていないものがあるのかもしれない。
そのあたりはコーチをしている人々から学び取りたいと思った今日この頃。
死にゆく大切な人へかける『最も大切な言葉』
そのニュースを聞いてふと祖母が亡くなったときのことを思い出した。
ともちゃんの父親が亡くなったときのことも思い出した。
祖父がなくなったときのことも思い出した。
ともちゃんに教わった素晴らしいことがあります。
それは死にゆく人へかける『最も大切な言葉』。
それは「ありがとう」という一言。
いたってシンプルな、そして当たり前の言葉です。
しかしこれこそが残される人も、(たぶん)死にゆく人も救われる究極の言葉です。
死にゆく人へ伝えたいことは何か、と問われればたくさんありすぎて
しかも病室などでいろいろあらたまって話すのは意外とできないもの。
そしてどれだけ多くの話ができたとしても満足できることは少ないと思う。
全てが凝縮された言葉「ありがとう」を伝えることは実行しやすい。
聴く側の体力はほぼ必要ないし周りの目を気にしなくて済む。
それでいて重要度は最高レベルという超おすすめな方法です。
(「簡単に〇〇できる」みたいなうまい話ってたまにはあるんですね)
今年に祖母を亡くしましたが、意識がなんとかあるうちにお見舞いにいけたので
幸運にも「いろいろありがとうね」と伝えることができました。
最後の最後に伝えられて本当によかった。
このおかげで悲しみをスムーズに乗り越え、強くなれました。
「ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」など
ネガティブな悲しみはほとんどなく元気な状態で現実を受け入れられたので、
その後のスタートダッシュが良かったです。
大切な人にここぞというときに伝えるための言葉は
「愛している」「大好きだ」などいろいろあると思いますが、
実は「ありがとう」という言葉こそが至高なものなのだと気付いた。
この大変素晴らしい真実を教えてくれたともちゃん「ありがとう」。
(ともちゃんは至って元気ですが)
この記事が誰かの参考になればと切に願う今日この頃。
ももたんが『シンデレラ』に近づいた日
ももたんは最近ほしいものがありました。
保育園の友達が最近買った半透明の靴が、
まるでシンデレラのガラスの靴みたいなのだそうだ。
ほいほい買ってあげるのもよくないと思い、考えた結果
親が認定したお手伝いをする毎にシールノートにシールを貼り、
目標値を達成したら買ってあげると約束をすることにした。
とうとうももたんは目標を達成し、いざガラスの靴探しの旅へ。
探し始めるとサイズがないだのちょっとデザインが気に入らないだの
なかなか決まらない。ちょっとお高いがとても気に入った靴を発見したが、
残念ながらピンポイントでちょうどよいサイズがない。。
他の店舗にも在庫はないとのこと。
高いもののこればかりは買ってあげたいという思いが強く、
オンラインショッピングにて購入することに。
ついに商品が到着した。
ももたん、とても喜んでいました。
頑張った甲斐があったね!
『問題解決プロフェッショナル』を読んでみた
『0ベース思考』を読んで、問題解決方法をしっかりと実践しなくては
ということに気付いた。
なので早速見直すために過去に読んだ本を引っ張り出してきた。
カードケースを新調!
年始から本格的に動いていた二つ折り財布の買い替え。
二つ折り財布の中身を分散して持つというプロジェクトが徐々に進んでいたが、
小銭入れ、長札入れと揃えてそこから半ば行き場を失っていたカード達がいた。
それらは仕方なく仮の住まいであるこれまた古いカードケースに身を潜めていた。
しかしついに日の目を見るときがきたのだ。
ココマイスターで興味があったマットーネシリーズを初めて購入。
ココマイスターは品物もいいし、宅配も迅速・丁寧で素晴らしい。
革の香りと何とも言えない光沢感、そして編み込みの美しさ。
とうとうカードケースも出そろって大変満足である。
二つ折り財布ひとつで管理した方が効率がいいのだが、
小銭入れ、長札入れ、カードケースに分散されても慣れればなんとかなるもの。
効率を重視しすぎてスタイリッシュさを犠牲にしないようにしていきたいものだ。。
【悩み事】自分の『意思』や『考え』がない?
職場でも私生活でも「自分の意思・考えはないのかい」と言われる機会があり
思い悩んでみている。
自分の意思がないと言われる人の特徴は次のようなものだそうだ。
【特徴】
・自信がない
・相手を傷つけたくない ←これは自分を傷つけたくないが正確かな
・相手に依存する(決めてほしい、自分の考えを認めてもらえるか不安)
・単に面倒くさい(保守的で変化に投入するエネルギーを惜しむ)
・欲がない(こうしたい!という事柄が出てこないので決断以前の問題)
・考えがブレる
【対策】
・現実的な目標を立てて達成する実績を積み上げる
・やると決めたことはまず最後までやり通す
・得意な仕事・趣味を極めてみる
・無計画に行動してみる(あくまでも私生活で・・)
・意識的にメリットに目を向けてみる
いくつか記事を当たって集めたもので信憑性は度外視。
「自分の意思がない」という言葉の捉え方も記事を書いている人により
バラバラであるようにとれたのであくまでも参考である。
当てはまるかもしれないなと思う項目はあったが、自覚していて
こう改善しようと考えている項目はまあいいと思う。
違うと感じる項目はスルー。
悩ましいのは自覚しているものの改善策が浮かばないものだ。
改善するべきなのかというところから問い直した方がいいのかもしれない。
・考えがブレる
これが曲者で困っている。
とっくに解決している人は若いうちに解決しているのかもしれないが、
これはどうも困る。
【悩み事】
1.考えがブレるのがよくないとされる主張
「〇〇しよう!」と主張したとする。
他の人が「△△した方がよりよい!」と意見を出す。
その意見は自分の知識・経験から出てこなかったよい意見だと感じ、
可能な範囲で検証・評価した結果「たしかにそうだ。では△△することにしよう!」
と主張する。また違う人がよりよい意見を出した場合同じことが起こる。
結果として考えをコロコロと変えることになるがこれはよろしくない。
2.自分が思う事
自分の知識・経験から出てこなかった意見も踏まえて考え直し、
よりよい方針を打ち立てることは良いことだと思う。
ただ一方考えをコロコロ変えるなという主張も理解できる。
ならばどうすればよいのか。。
自分の知識・経験を完璧なものにすればよいのか。
それは現実的ではないしおそらく不可能だろう。
では自分が属する集団において知識・経験がトップになればよいのか。
これは有効策な気がするがどうすればトップなのか判定が困難だ。。
有効に数値化できるものでもないだろうし白黒つけられない事柄もあるだろう。
あまり考えすぎるなと周りはアドバイスしてくれる。
しかし直感的にここは自分なりにしっかりと考えないといかんとアラートが鳴っている。
慌てず無理なく周りに迷惑をかけない程度に改善策を日々考えていこう思う今日この頃。